いるけどいない妖怪たちの珍道中/豆腐小僧双六道中 京極夏彦

豆腐小僧って一体何だろう、と興味を惹かれながら読もうか読むまいか迷っていたところ、友人から面白いよと勧められて読むことにしました。

【簡単なストーリー】

廃屋にいつの間にか現れていた豆腐小僧。

盆を持ちその上の豆腐を舐めるだけの妖怪であるのなら、豆腐を落としてしまうと一体どうなってしまうのか。

自分の存在について答えを求めて豆腐小僧の行き当たりばったりな旅が始まる。

左:豆腐小僧双六道中ふりだし 右:豆腐小僧双六道中おやすみ

著者:京極夏彦/角川文庫

豆腐小僧と地の文

妖怪とは何かを主人公の豆腐小僧と一緒に学んでいくお話です。

地の文が読者に向けた物語のナレーションとなっていて、物語の登場人物へツッコミを入れたり解説を入れたりします。

物語の時代設定は幕末ですが、ナレーションは時代設定に縛られない自由さで語るので読みながらついつい笑ってしまいます。

豆腐小僧に対しては辛辣で、どうしようもないくらい馬鹿だと度々評します。

豆腐小僧は出会う妖怪ほとんどに馬鹿だ愚かだと呆れられ、豆腐小僧は知る由もないですが語り手のナレーションにも馬鹿だと言われる始末。

読者には地の文のナレーションがありますが、無知な豆腐小僧に解説をするのは滑稽達磨という妖怪で、なんだかんだと世話を焼きます。

読者に向けたナレーション、物語の主人公の豆腐小僧と妖怪たち、そして幕末の人間たちの物語と三重構造となっていてこれらが絶妙に合わさって面白いのです。

あくまで主役は妖怪たちなので、人間たちの物語が通常であれば盛り上がるところをバッサリとナレーションによりカットされたりします。

その為お話の内容がとっ散らかることがありません。

妖怪と人間

妖怪たちは人間には見えないし触ることもできません。

しかし、妖怪は人間がいなければ生まれない概念の存在であり、妖怪がいるところに人間が行くのではなく人間がいるから妖怪がそこにいる、という存在のため妖怪と人間は切っても切り離せません。

人間のそばに妖怪が常にいることになります。

すると、物語も人間たちの物語が関わってきます。

関わってくるというより妖怪としては人間がいないとそもそも湧き出ないので、人間が何かをしてくれないことにはどうしようもないのです。

豆腐小僧は興味本位で人間たちについてき、人間たちの騒動に巻き込まれていきます。

人間たちが真剣に会話している最中に、妖怪同士が憑いている人間について愚痴っていたり、妖怪たちの聞こえないはずの会話が、微妙に人間同士の会話とかみ合うことがあったりと読者視点ならではの面白さがあります。

消えない豆腐小僧

滑稽達磨から、妖怪の存在としての前提が人間ありきなのにもかかわらず、廃屋から出て自由に動き回る豆腐小僧の在り方が問題視されます。

豆腐小僧はなぜ消えないのか。

滑稽達磨からあり得ない存在だと言われ、豆腐ごとお盆を床に置いてみろと迫られます。

動き回るようなあり得ない妖怪なのだから、豆腐を置いたところで問題ないだろうということでしたが豆腐小僧が拒否してひと悶着があります。

このやり取りがまた可笑しいのですが、結局豆腐小僧がなぜ消えないのかは「豆腐小僧双六道中ふりだし」ではわからず、「豆腐小僧双六道中おやすみ」にて解明されます。

最後に

本書で語られる妖怪論は他の京極夏彦作品と共通の概念となるため、初めての京極夏彦作品としてお勧めです。

こちらを先に読んておくと、ほかの作品がより読みやすくなると思います。

色んな妖怪たちが出てきますが、豆腐小僧も好きですが「豆腐小僧双六道中おやすみ」に出てくる八咫鴉のやる気のない感じが好きです。

「豆腐小僧双六道中おやすみ」では豆腐を手放すと豆腐小僧がどうなるのかも描かれるので「豆腐小僧双六道中ふりだし」が面白いと思った方は続編の「豆腐小僧双六道中おやすみ」を読むことをお勧めします。

著者の妖怪論が詰まった本書ですが、くすくす笑いながら読める妖怪と人間たちのコメディ小説です。

豆腐小僧なんて妖怪知らなかったのに、愚かで無知な豆腐小僧を滑稽達磨のようにあれこれ世話を焼きたくなる可愛い妖怪と思うようになりました。


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