男は妻への腹いせに素性の分からない女と一夜を過ごした。それなりの気晴らしが出来て部屋に戻ると妻が殺されていた。 殺人の容疑をかけられるが、男には犯行時刻に女と一緒にいたという確かなアリバイがあった。 男の無実は簡単に証明できるはずだったが……/幻の女 ウィリアム・アイリッシュ 訳 黒原敏行

新刊として本屋さんに平積みされていて、鮮やかなオレンジ色の表紙に惹かれて手に取り、冒頭の一文を読んですぐレジに持っていきました。

読了後に冒頭の「夜は若く、彼も若かったが~」が名訳で有名だと知り、一文に引き込まれて買う予定がなかったのに買わせてしまう、美しい文章の力に改めて驚きました。

江戸川乱歩が「世界十傑」と評した推理小説ということだけあって、物語の結末が気になってしまって一気読みしてしまう作品です。

【簡単なストーリー】

スコット・ヘンダースンは苛立ちながら夜の街を歩いていた。

妻、マーセラと喧嘩をして部屋を飛び出したヘンダースンは、腹いせにマーセラと過ごすはずだった予定を代わりに過ごしてくれる女を探していた。

気まぐれに入ったバーで、かぼちゃのようなオレンジ色の帽子を被った女にヘンダースンは声をかける。

女の警戒心を和らげるため、ヘンダースンはお互いの素性を明かさずこの夜を楽しく過ごすだけだと話を持ち掛け、面白がった女はその提案に乗る。

バーからレストランへ移動して食事をし、劇場で音楽鑑賞をした後二人は出会ったバーで別れ、お互いの素性を明かさないで過ごすというゲームを終わらせる。

いくらか気が晴れたヘンダースンが部屋に戻ると、妻が殺されていて部屋には刑事たちが待ち構えていた。

刑事たちはヘンダースンに疑いをかけるが、犯行の時間ずっと女と一緒にいたという確かなアリバイがあった。

ヘンダースンは女のことを話そうとするが、自分の持ちかけたゲームのせいで女のことは何も知らなかった。

それならきっと立ち寄ったバー、レストラン、劇場の人間があの目立つオレンジ色の帽子を憶えているはず、と刑事と共に聞き込みに行くが誰も「その女」を憶えていなかった。

「女」は幻のようにその存在が消え、ヘンダースンの言葉だけでは「その女」の存在を信じて貰えず、無実を証明できないまま死刑判決が下されてしまう。

事件に疑問を持った刑事と親友の命を救うため駆け付けた友人、そして恋人の3人が消えた「女」を探して奔走する。

ヘンダースンの死刑執行を止められるのは消えた「女」だけ。

死刑執行まで残りあと……。

著:ウイリアム・アイリッシュ/訳 黒原敏行

早川書房

どんな本?

主人公のスコット・ヘンダースンが部屋に戻ると妻が殺されていて、その殺人の容疑をかけられ、無実を証明できないまま死刑判決が下されてしまいます。

目次は死刑判決を下されたヘンダースンの死刑執行日までのカウントダウンとなっていて、「死刑執行日の〇〇日前」と物語が進むにつれて死刑執行日も迫ってくるという、読者も登場人物と同じように焦らせるという仕掛けがされています。

女は目立つオレンジ色の帽子を被っていて、バー、レストラン、劇場と多くの人の目に触れていたにも関わらず、女のことは誰も憶えていません。

簡単に無実を証明できるのに出来ないというもどかしさと、どうして誰も憶えていないのか、妻を殺したのは誰なのか、女はどこに消えたのかという謎が気になって一気に読んでしまう作品です。

刑務所にいるヘンダースンは身動きが出来ないので、事件に疑問を持った刑事のバージェスと親友の危機に駆け付けたジャック・ロンバート、無実を信じる恋人のキャロル・リッチマンの3人が消えた女を探し回ります。

手掛かりを掴む為、3人は女を見ているはずなのに憶えていないと答えた怪しい証言者たちを当たりますが、真実に近づこうとするとその手掛かりが寸前でなくなってしまいます。

無実をどう証明するかや妻を殺した犯人を捜すのではなく、無実を証明できる人間が謎で死刑執行までに探し出さなければならない、という普通の推理小説とは違ったアイデアで執筆された作品です。

これだけでも面白いのに、江戸川乱歩が「世界十傑」と評したのはこのアイデアだけではありません。

物語には計算された仕掛けがあり、最後の場面まで読者を翻弄させ途中で読むのを辞めることが出来ない物語展開にしていることです。

1940年代に発表された作品にもかかわらず、今も名作として読まれているのが納得の内容で最後の1ページまで楽しませてくれます。

【帽子の女との一夜】

スコット・ヘンダースンは妻のマーセラと喧嘩をし、部屋を飛び出して夜の街を苛々しながら歩いていました。

このままでは予約したレストランや劇場のチケットが無駄になってしまうため、ヘンダースンは適当に女を誘ってこの夜を過ごそうと考えます。

目についたバーに入り、オレンジ色の帽子が似合いすぎる不思議な女に声をかけマーセラと過ごすはずだった予定を一緒に過ごしてもらうことにします。

ヘンダースンは自分のお願いが不躾であることが分かっていた為、女に断られないように他意がないことを示すために、これから過ごす予定を伝えてお互いの素性を明かさないでこの夜を楽しく過ごすことを約束します。

名前も何も知らない相手と過ごすというゲームに女は面白がり、ヘンダースンの誘いに乗ってくれます。

タクシーでレストランに向かい、店内に入ると女は帽子を脱ぎますが途端に女の魅力はなくなってしまい、印象に残らない平凡な女になってしまいます。

食事中の会話はお互いの素性を明かさないというルールがある為話題に困り、取るに足らない記憶に残らないような会話で終わります。

レストランの外に出る直前で女は再び例の帽子を被りますが、すると印象ががらっと変わり、バーで声をかけた時のような不思議な魅力のある女に変わります。

劇場へと向かうと到着が遅すぎたせいで入り口には人がおらず、二人は客席へとそのまま向かいます。

楽団のドラマーが女の存在に気づいて、女に何度も視線をよこします。

上演中に出演した女性歌手の帽子と女の帽子がまったく同じであることが分かり、女性歌手は怒って客席に渡していた花束を女だけには渡しません。

女は女性歌手に対抗して客席から立ち上がり、その際スポットライトが当たったことで同じ帽子が二つあることが他の観客に知られてしまい、騒ぎになります。

女性歌手が折れて花束を渡し、騒ぎを収めます。

女性歌手をやり込めたことに満足した女は、終演後にヘンダースンが癖で上隅を折ったプログラムを気まぐれの記念として持ち帰ることにします。

帰りのタクシーに乗る前に、目の見えない物乞いに誤って火のついた煙草で火傷をさせてしまい、お詫びにお金を多めに渡して最初のバーに戻ります。

二人はこのバーで別れることにしますが、ヘンダースンに残った女の印象はオレンジ色の帽子が異様に似合う、ということだけでした。

気が晴れたヘンダースンが部屋に戻ると、そこには刑事たちとマーセラの死体が待っていました。

ヘンダースンも家に帰ればマーセラが殺されていて、殺人犯にされないように証言してくれる人が必要と分かっていれば、女の顔やこの夜のことをよく憶えようとしたことでしょう。

しかし、実際はマーセラと喧嘩した苛立ちのまま腹いせに適当に女を誘って予定をこなしていただけで、女には元々興味もなく、またお互いの素性を明かさないというルールの為会話も弾まず、ヘンダースンは終始苛々していて女の顔も身体的特徴も碌に憶えていませんでした。

ヘンダースンには恋人のキャロルがいた為、マーセラと上手くいかないからといってその代わりを探す必要はありませんでした。

女と遊ぶことに積極的な性格でもない為、女に誘いをかけるときも仕方なく声をかけただけで、ヘンダースンにとって不本意な行動でした。

そのせいか、ヘンダースンは女と過ごした夜の記憶が曖昧で、女については予定を過ごしてもらうだけの今夜だけの相手としてしか認識しておらず、帽子のこと以外はまるで憶えていません。

ヘンダースンにとって、女がこの時まではどうでもよい存在だったことがよくわかります。

事件が起きるまでのヘンダースンの視点の物語では、さほど重要ではないけど何となく目について意識に残る、といった描写がされています。

例えば、最初のバーで会計をするときの伝票の番号が「13」で不吉に感じたり、劇場のドアマンの髭が特徴的だったなど、憶えていても仕方ないことが何故か目について意識に残り、一緒に過ごしている隣の女のことは顔すら憶えず帽子にばかり気を取られる、という人間の記憶の仕方のいい加減さをよく表しています。

後から重要なことを思い出そうとするとき、些細でどうでもいいようなことばかりはっきり憶えている、といった経験がある方は多いのではないでしょうか。

殺人の容疑をかけられているのに、女について曖昧な証言をするヘンダースンを刑事たちがそのまま信じるはずがありませんでした。

【無情にも下された判決】

部屋で待ち構えていた刑事の1人、バージェスから尋問を受けますがマーセラが殺されていたという衝撃の事実にヘンダースンは動揺し、うまく話すことが出来ません。

そして、状況はヘンダースンにとって不利になっていきます。

凶器に使われたのはネクタイで、そのネクタイの色はヘンダースンの着ていた服に一番似合うものでした。

むしろ、凶器で使用されたネクタイを選んでいないことが不自然なほどで、共に過ごした女からもネクタイの色が合っていないことを指摘されています。

また、ヘンダースンはマーセラと言い争いをして部屋を飛び出しており、夫婦仲が悪かったことが刑事たちに知られ、ヘンダースンに殺害の動機があると捉えられてしまいます。

更に悪いことに、ヘンダースンには恋人のキャロルがいてその存在が刑事たちに知られてしまっていました。

観念したヘンダースンは、マーセラとの夫婦仲は最悪で離婚をしようとしていたことを話します。

事件当日のマーセラは離婚に応じず、ヘンダースンに嘲笑う態度を取って挑発してきたと説明します。

激怒したヘンダースンは、街で会った女と過ごすと宣言して飛び出してバーに行き、そこで会った女と過ごしたと当日の行動をバージェスに話します。

バージェスは犯行時間から考えて、ヘンダースンの行動が本当なら女と出会ったバーにいたことが証明されれば無実だとわかると話し、バーの名前や女のことを詳しく聞こうとします。

ところが、妻が殺され延々と尋問され続けたヘンダースンは混乱しており、女のことは名前すら知らない為バージェスに話すことが出来ません。

あやふやな回答しかしないヘンダースンにバージェスは不信感を抱きます。

バーで出会い、食事をして観劇までした女のことを何も話せないヘンダースンに刑事たちは怒り、ヘンダースンへの疑いを強くします。

刑事とヘンダースンはあやふやな記憶を辿って、実際にヘンダースンがとったその日の夜の行動を再現して、立ち寄った場所の従業員に話を聞きます。

しかし、ヘンダースンの期待も虚しく誰もが女の存在を否定します。

あれほど目立つ帽子を被っていた女を憶えていないと、憶えているはずの人々に次々と証言され、ヘンダースンは訳が分からなくなり錯乱状態になります。

刑事たちは下手な嘘をついて罪から逃れようとしているようにしか見えないヘンダースンに冷たい態度を取りますが、バージェスだけは様子のおかしいヘンダースンを気の毒に思います。

そして、女の存在は幻のように消えてしまい、ヘンダースンのアリバイは証明されず誰にも信じて貰えないまま死刑判決が下ってしまいます。

マーセラとは不仲で、恋人が別にいて凶器は一番似合う色のネクタイ、アリバイを証明してくれる女のことは誰も知らないと答える、というヘンダースンを犯人だと考えるには十分な状況証拠ばかりが揃ってしまっています。

また、バーから戻ってきて刑事たちの尋問を受け、翌日の午後6時にヘンダースンのアリバイを確認しようと立ち寄った店を訪れるのですが、誰もが女の存在を否定します。

ヘンダースンがバーを出てからのわずか数十時間の間に、世界がまるでヘンダースンを置き去りにして変わってしまったかのように、憶えているはずの人々が違った証言をします。

ヘンダースンは気が狂いそうになり、訳の分からないまま死刑判決が下されてしまいます。

法廷の場でも、一人の男の生死がかかった重要な裁判にもかかわらず、ヘンダースンが主張する女が法廷に現れないことを指摘され、ヘンダースンは堂々とした態度で裁判長に訴えますが判決は覆りませんでした。

判決が下された日から、ヘンダースンの死刑執行のカウントダウンが始まります。

【消えた女の行方】

死刑囚となり、死刑執行を待つ身となったヘンダースンを担当刑事だったバージェスが訪れます。

絶望的な気分で投げやりな態度を取るヘンダースンに、バージェスはヘンダースンが無実かもしれないと考え始めたと伝えます。

憶えていないと繰り返すヘンダースンを疑わしいとその時は考えましたが、夫婦喧嘩をして腹いせに適当な女を誘い、部屋に帰ると妻が殺されていて殺人の容疑者になってしまえば混乱して記憶が曖昧なのはある程度仕方ないのではないか、と考えを変えたと話します。

アリバイ工作をするのであればもっと巧妙にやるはずで、ヘンダースンのように追及されたら簡単にぼろが出るような稚拙なアリバイはそもそも主張する意味がないと思い直したと話します。

そして、無実を信じているヘンダースンの恋人のキャロルとバージェスは話し合い、バージェスはヘンダースンに協力を申し出ます。

しかし、一度解決してしまった事件を刑事が独断で掘り返すようなことは出来ません。

映画や小説の熱血刑事のように、理想と信念だけで他の仕事を全て捨ててヘンダースンの為に動くことは難しいため、刑務所の外で代わりに動いてくれる人を探すように助言します。

ヘンダースンはジャック・ロンバートに手紙を出し、無実を証明するために代わりに動いてくれるようお願いします。

手紙を受けてヘンダースンのもとへジャックが訪れたのは、死刑執行のわずか18日前でした。

時間のない中、ジャックはヘンダースンから話を聞き、改めてその日の夜の記憶を思い出してもらい、捜査対象から漏れてしまった「女を見ているはずの人」について聞き出します。

楽団のドラマー、同じ帽子を被っていた女性歌手、劇場の入り口にいた目の不自由な物乞いたちは、帽子の女とヘンダースンがいたことは分かるはずです。

わずかなが手掛かりですが、ジャックはヘンダースンが新たに思い出した重要な証人たちへの調査を始めます。

ジャック・ロンバートが登場したことで、本格的な調査が始まります。

死刑執行まで時間がないため、ヘンダースンが思い出したわずかな手掛かりを元にジャックは必死に調査を始めます。

ここから、ジャックの一人称視点の調査の物語と、同じく無実を信じているキャロルの一人称視点の調査の物語が展開されていきます。

二人は別々に調査をしていて、それぞれにバージェスのサポートが付きます。

バージェスが刑事として堂々と捜査が出来ればいいのですが、それが出来ない為素人の二人が工夫をして時には大胆な行動をしながら、必死に女を知っている証人を探し回ります。

調査をしていくと「女を憶えているはずの人たち」が誰かに脅され、金を渡されて口封じをされていたことがわかります。

犯人らしき人物に迫っていきますが、掴んだと思った重要な手掛かりは次々と消えて行ってしまい、女の行方も分からないまま死刑執行日が近づいてきてしまいます。

焦った3人はヘンダースンが思い出した消えた女を見つけられるかもしれない、ある手掛かりに全てを賭けることにします。

【最後に】

3人が調査を始めると、どうやら誰かが女の存在をなかったことにする為お金を渡して偽の証言をさせていることが分かってきます。

本当の証言を得て、口封じをしている人間の正体を掴もうとしますが上手くいきません。

ヘンダースンから得たわずかな手掛かりから、糸を手繰るように少しずつ手掛かりを集めようとする描写が丁寧で、一体何が起こっているんだと先が気になって読むのが止まらなくなります。

終盤の展開はそういうことだったのかと驚きの連続で、物語内で提示された謎がきちんと解決するという、読み終わった後で明かされなかった謎にモヤモヤするということがありません。

ミステリー小説が好きなら、読んでおいて損のない名作です。

一気読みする時間がある時にぜひ読んで欲しい作品です。


スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする