農業、エネルギー問題、そして東日本大震災。知らずにゆるく生きてきたダメ社員が農業を通してその意識が変わっていく。/幸せの条件 誉田哲也

「ストロベリーナイト」や「ジウ」などの警察小説やホラー小説、「武士道シックスティーン」といった青春小説など幅広い小説を執筆されている中で、推理やホラー、青春小説でもなさそうな本書を見つけて読むことにしました。

表紙を見たときは誉田哲也さんの著作の本だとは思いませんでした。

【簡単なストーリー】

理化学実験ガラス機器の専門メーカー、片山製作所に二年前から働いている瀬野梢恵は理系の大学を卒業しながらも碌に勉強をしていなかった為、製品開発も加工業務も出来ず誰でも出来る伝票整理の仕事を任されていた。

梢恵は何もできない自分が悪いことが分かりながらも、毎朝特にやりがいもない会社に出社するのが憂鬱で与えられる仕事以外になにも興味を持っていなかった。

なんとなく日々を過ごす梢恵は、突然社長の片山から農業とエネルギー問題について熱弁され、片山が開発したバイオエタノール精製装置の為の米を生産してくれる農家を探して契約を取り付けて来いと無茶ぶりをされてしまう。

長野県穂高村への突然の出張と契約を取ってくるまで戻ってくるなという指令に、梢恵は嫌々ながらも従い、大した準備も知識もないまま穂高村へと赴く。

そこで梢恵は今の日本の農家の現実と米の生産の契約を取ることの難しさ、代替えエネルギーの抱える問題などを知り、片山の指令が簡単ではないことを痛感させられる。

落胆する梢恵に交渉先の農家から、人手が足りないから農業の勉強も兼ねて住み込みで働いてよく勉強してから交渉を考えろと言われてしまう。

契約は簡単に取れそうにないことを片山に報告すると、片山はそのまま住み込みで働いて勉強させて貰えと言い放つ。

それは遠まわしに会社に必要のない人材だと言われていることと同じで、梢恵はショックを受けながら、何も言い返せず住み込みで農業をすることが決まってしまった。

何事にも真剣に取り組まず、生きることについて甘く考えていた梢恵が住み込みで農業に取り組むことで、その意識が変わっていく。

著:誉田哲也/中公文庫

どんな本?

お金がないと生活が出来ないから仕方なく就職できた会社で働いて、大学で勉強をしてこなかったから学歴も理系であることも関係ない単純な伝票整理の仕事で、やりがいもない仕事に毎朝会社へ行くのが憂鬱という、瀬野梢恵の人物像はどこにでもいる二十代の若者の姿を現しています。

誰もが好きな仕事や仕事を楽しいと思える働き方が出来るわけではありません。

働くということ、生きるということについての意識が低い梢恵はそんなゆるい生き方を見抜かれて、片山からバイオエタノール精製装置の為の米を生産してくれる農家と契約出来るまで戻ってくるなと言いつけられてしまいます。

誰でも出来るような伝票整理の仕事しかしてこなかった梢恵が、飛び込み営業に近い仕事が出来るわけもなく、途方に暮れます。

そこで交渉先の農家で住み込みで働くことになったことで、梢恵は今までの自分の生き方や働くことの意識について、土に触れ人と深くかかわることで変わっていきます。

いい加減に生きていて、片山から必要のない人材と言われても何も言い返せなかった梢恵が、一人の人間として一皮むけた成長を遂げます。

農業や畜産といった、生きるために必要な食料の生産に関わらない会社員生活をしていると、食品売り場に並んでいる野菜や肉、魚がそこに並んでいるのが当たり前で、その先にある生産者達へ考えが及ばないで毎日を過ごしてしまいます。

食料自給率や農業の後継者不足、そして農業に携わる人たちの高齢化など学校の勉強やニュースで何となく知ってはいるけど、わかった気でいて今そこに迫る危機に鈍感になっています。

本作では何も知らない梢恵が農業に取り組むことで、農業とはどのように行われていてそこで働く人たちの農業と土地への想いや、真剣に働くということ、気にもしていなかったエネルギー問題について学んでいく内容となっています。

農業についての描写が細かく、梢恵と一緒に本当に農業をしているような感覚になるほどで、映像で見て知った気でいた農業への見方が変わります。

日本の農業問題からエネルギー問題について、固いテーマでありながら梢恵が繊細そうでいて楽天的なところもあるおかげで、一人称視点の梢恵のぼやきや突っ込みが面白く、笑いをこらえながら読み切ることが出来ます。

【突然の長野出張】

片山製作所で誰でも出来る伝票整理の仕事しかしてこなかった梢恵は、社長の片山に呼び出され日本の農業の問題とエネルギー問題についてなぜかクイズ形式で熱弁をされます。

最近読んだ小説に影響されたらしい片山は、自作したバイオエタノール精製装置に使用する米の生産をしてくれる農家と契約をして来いという無茶ぶりをして、梢恵は訳が分からないまま長野出張が決まってしまいます。

農業問題もバイオエタノールのことも何もわからない梢恵は、とりあえずバイオエタノールに関する本を購入して勉強をしようとしますが、興味が続かず結局ほとんど読めないまま終わってしまいます。

仕事で無茶ぶりをされても梢恵には大学時代から付き合っている彼氏がいて、仕事がダメでも恋人がいるから大丈夫と心のバランスを取ろうとしますが、ここでまさかの事実上の別れ話を告げられ、その理由というのが梢恵の人間的魅力の無さという、他に好きな人が出来たと言われるより辛い内容で梢恵はショックを受けます。

仕事では訳の分からない業務を言いつけられ、恋人には事実上の別れ話を告げられと泣きっ面に蜂の状態で、心で泣きべそかきながら長野県穂高村へと向かいます。

とりあえず同じ毎日を過ごして梢恵なりに平穏に過ごしていた会社員生活ですが、片山からの無茶ぶりと思える長野出張で、梢恵を取り巻く世界が変わってしまいます。

片山との会話から、梢恵がただ毎日会社に来ているだけで何も勉強をせず会社で起きていることに何も興味を持っていないことがわかります。

梢恵のような人は珍しくはなく、きちんと与えられた仕事はしているので特別悪いわけではないのですが、片山は若く将来がありながらゆるく生きている梢恵を変えようと、無茶苦茶に思えるバイオエタノール精製装置の為の米の生産をしてくれる農家との契約を言いつけます。

片山が無茶苦茶な思い付きで社員を振り回している様子を今まで見ていた梢恵は、自分にもついに火の粉が降りかかってきたと思うばかりで、片山の真意まで考えが及びません。

上っ面だけを見て、自身も上辺だけ取り繕う生き方は恋人からも見抜かれ、中身がなく人間的魅力がないと言われてしまいます。

恋人との会話は、梢恵の会話には出さない心の声と恋人の容赦のない言葉に傷ついている様子が、梢恵には悪いのですがその会話のテンポの良さと救いようのないところがコントのようでつい笑ってしまいます。

仕事も恋も一気に暗雲立ち込める状態となり、問題の長野出張でさらに追い打ちをかけられることになります。

【住み込み農業の始まり】

片山が農協の知り合いに話を通していると言っていた為それを当てにしていた梢恵ですが、実際に話を通したという担当者と会ってみると、協力をもらえるどころではなく本当に来てしまった梢恵に迷惑そうにするばかりで、一人で農家と交渉をしなければならなくなります。

なんとか農家のリストだけ手に入れたものの、先の思いやられる出だしに不安が募ります。

とりあえずさっさと契約を取り付けて会社に戻ろうと農家を訪ねますが、全く相手にされません。

見事に玉砕し、落ち込みながら今日の宿に行くとそこで「あぐもぐ」の安岡というこの辺りの休耕田を一手に引き受けている有力な農家を紹介されます。

断られ続けて心が折れそうな梢恵は、安岡が愛想が良くないことを事前に知らされることで怖気づきますが、農家と交渉をしなければ問題は解決しないとして、逃げ出したい気持ちを奮い立たせて「あぐもぐ」に行くことにします。

嫌だな帰りたいなと思いながら「あぐもぐ」に到着してしまい、断られたらどうしようと怖くて入り口の前でしゃがみこんでいると、安岡茂樹の妻の君江に見つかってしまいます。

君江は梢恵を温かく迎え入れ、初めて冷たく接してこない農家の人間に梢恵は食事まで出してもらって、情けなさと居た堪れなさで涙が出ます。

外出していて不在だった茂樹が戻ってくると、茂樹は梢恵の話を一応聞いてくれる姿勢を見せてくれますが、具体的な数字を示して論理的に梢恵の甘い考えを論破し、梢恵は何もわからないまま安易に契約が取れると思っていた自分を恥じます。

バイオエタノール精製装置の為の米の生産を頼むだけと軽く考えていた梢恵でしたが、片山が語っていたような簡単な話ではないことが分かり、どうしたら良いのかわかりません。

茂樹に勉強して出直して来いと言われ、梢恵は興味を持てずほとんど読んでいなかったバイオエタノールの本を読んで勉強することにします。

翌日、再び訪れた安岡家で梢恵は一夜漬けでありながら今度は真摯に仕事に取組み、梢恵が理解できた範囲でバイオエタノールについての考えを伝え、再度提案をします。

今度は脈ありな反応を示す茂樹ですが、バイオエタノールを活用するには現実的なお金の問題があり、採算が合わなければ積極的にバイオエタノールを使用しようとする農家は現れません。

交渉が上手くいく兆しが見えないところで、「あぐもぐ」で一人働き手がいなくなってしまうという事件が起きます。

そこで茂樹は、何も知らないのでは話にならないから「あぐもぐ」で住み込みで農業をして勉強をしたうえで再度バイオエタノールについて提案をしろと言い、半ば強引に住み込みで農業をすることが決まってしまいます。

片山からも反対されないどころか、積極的に後押しされた上に会社に必要ない人材だから居なくても困らないと言われてしまいます。

バイオエタノールの契約は取れそうもなく、かといって会社に戻れず居なくても困らないとまで言われ、したこともない農業を住み込みでやることになるという、八方塞がりな状況に梢恵は落ち込みまくり、心が折れそうになります。

住み込みで農業をする準備をする為、一度東京に戻り荷物を纏めますがこのまま長野へ行くのが悔しくて片山へ直談判をしに行きます。

すると片山から一喝され、理由をつけて真剣に働こうとしない梢恵に辛辣な言葉を投げつけます。

自分の会社の社員を他所の団体へ農業で働かせる非常識な振る舞いをする片山の方がおかしいと思っていた梢恵は、片山からの初めての真剣な叱責に何も言い返せません。

今の梢恵には片山の真意は分からず、ただただ傷つき涙を流して会社を後にします。

梢恵は会社では一人部屋で伝票整理だけの楽な仕事をしていたせいで、自分が整理していた伝票の数字の中に隠れた営業社員の仕事の苦労について、何一つ知りませんでした。

契約を取ってこいと言われても、梢恵には営業の仕事がどんなものか想像も出来ず、契約を取る為に必要な具体的な数字の落とし込みや、契約を取る為のプロセスなど何も考えないまま農家との交渉に出向いてしまいます。

恋人が梢恵の長野出張を言いつけられたことの愚痴を聞かされて淡白な反応を示したのは、会社から業務命令で契約を取り付けて来いと言われた以上、契約を取る為に勉強をするのは当たり前と考えているからですが、梢恵は働くことについての認識が甘く恋人の反応に納得がいきません。

何事も真剣に取り組もうとしない梢恵は中身が伴わず、恋人から愛想を尽かされ片山からは強い言葉で叱責されてしまいます。

いいところ無しのような梢恵ですが、心が折れそうになりながらも仕事を投げ出さず取り組んでいく姿勢は、周囲に梢恵は機会を与えれば変われる人間だと思わせ、片山や茂樹をはじめとした様々な人から助け舟を出して貰います。

本当にダメな人というのは長野出張を言いつけられた時点で、黙っていなくなったり長野に行っても何もしないで適当な報告をして帰ってきてしまいます。

一人で行動をしていればいくらでも嘘をつくことが出来ますが、心では泣きべそかいていても梢恵はずるをしないで梢恵なりに片山から言いつけられた仕事をこなそうとします。

茂樹に現実を突きつけられ、初めて何もわからないまま交渉に来てしまった自分を恥じて、全く読めなかったバイオエタノールの本を読んで再度提案するなど、梢恵の素直さと仕事に対して真剣に向き合おうとする姿勢は、茂樹に梢恵に対して可能性を感じさせることになります。

どん底な気分で梢恵は再び穂高村へと行き、住み込みで農業をすることになります。

【覚悟を決める】

安岡家で住み込みで農業をすることになった梢恵は、寝食を共にしながら茂樹や君江から様々なことを教えてもらいます。

一緒に生活を共にすることで農家の仕事が朝早くから夜遅くまであることや、そうした激務が春から秋まで続くことを知らされ驚きます。

今まで消費者の視点で農作物を見ていた梢恵は、「あぐもぐ」で働くことで生産者の立場で農作物にまつわるあらゆることを学んでいきます。

茂樹から食料自給率についての真実や、無農薬栽培の現実など知っているようで知らなかった事柄が多く、農業はビジネスという新しい価値観を知ります。

バイオエタノールの為の米の生産について、契約を取るのに生産コストはどれくらいでいくらで買い付けるのかといった、具体的なビジネスを思い描けなかった梢恵にとって全てが学びで、新鮮な気持ちで様々なことを知識として吸収していきます。

農業は大勢でするもので、茂樹と君江と二人の娘の高校生の朝子、茂樹の甥の健介と「あぐもぐ」で働いている北村行人と若月史郎の六人でそれぞれ仕事の役割を分けて仕事をして行きます。

朝夕の食卓もにぎやかで、寝るとき以外はいつも誰かと仕事をしていたり一緒に過ごすという人との関わり合いが深い中で、傷ついて落ち込んでいた梢恵の心も次第に落ち着いていきます。

梢恵は基本的に何もできない為、雑用から始めてわからないことはその都度質問をして勉強をして行きます。

少しずつ「あぐもぐ」での生活に慣れ始めたころ、突然片山から必要な書類が見つからないから一度戻ってきて欲しいと言われ、東京に戻ります。

その日は2011年3月11日。

自宅に戻っていた梢恵は激しい揺れに驚きます。

尋常ではない揺れに外に飛び出した梢恵は、混乱する人々を見て普通の地震ではないことを実感します。

電話は繋がらず、部屋に戻ってテレビをつけるとそこには信じられない映像が流れてきました。

後に東日本大震災と名前が付けられたこの震災は、巨大な津波に押し流される家屋や土地、福島原発の放射能汚染の可能性など理解の追い付かない被災状況に言葉を失います。

以前の梢恵とは違い、津波に飲み込まれていった農地やビニールハウスがどれほど維持するのが大変で、作物を育てることが難しいかを知っている梢恵は居ても立っても居られなくなります。

会社で地震の被害に遭って壊れてしまった製品の整理が終わると、梢恵は自分の意志で長野へ戻ることを片山に伝えます。

与えられる仕事しかせず、何も考えていなかった梢恵からの初めての強い意思表示に、片山はその成長に驚き、本来の目的を忘れるなよと念押しをして梢恵を送り出します。

会社でも「あぐもぐ」でも誰でも出来るような仕事しか任されていないけれど、被災した人たちへ出来ることはきっと食料を生産して届けることだとして、初めて前向きな気持ちで「あぐもぐ」へと戻ります。

東日本大震災をきっかけにして梢恵の意識が大きく変わり、農業に関わるようになったことで自分のしている仕事の意味についてよく考えるようになります。

福島原発の問題は自然と日本のエネルギー問題へと考えるきっかけとなり、片山が発案したバイオエタノールに可能性を感じるようになります。

しかし、どうすればバイオエタノールが実用化できるのかはまだわかりません。

梢恵は「あぐもぐ」で農業の手伝いをしながら、農業やエネルギー問題について考えをめぐらすようになります。

【最後に】

居なくても困らないと言われるようなダメ社員だった梢恵が、「あぐもぐ」で農業をすることで人として大きく成長をして行きます。

今の日本の農業問題についても描かれており、茂樹は放置されている農地の手入れを受け持つなど周辺の農業が廃れないよう奮闘しています。

そして、後継者が出来ず田んぼをいくつか干した高齢の農家の田んぼを詐欺師が騙して、その土地を冒涜するような行いがされたり、福島原発の影響で農作物を作ることが許されず大切な農地を失ってしまった家族の話、無農薬栽培の難しさなど様々な角度から農業を取り巻く問題を取り上げています。

梢恵の視点から米が出来るまでを細かく描写され、素人の目線から見る米作りは梢恵の純粋な感想と農家のプロからでは出ない梢恵の独特な表現が面白く、最後まで楽しく読むことが出来ます。

簡単な手伝いでも手を抜かず取り組む姿は、少しずつその姿勢が認められて任される仕事の幅が広くなります。

梢恵は元々真面目で心優しい性格で、詐欺師に騙され打ちひしがれる農家に手伝いを申し出たり、被災者の為に何が出来るか考えたり、勉強の為に茂樹の農作業の様子をしっかり観察したりと、梢恵の前向きな行動は無理だと思っていたバイオエタノールについての突破口となります。

また、本作では福島原発が原因で農地で作物を作ることが許されず、茂樹のもとへ避難してきた家族が登場することで、東北を決して忘れてはいけないという強いメッセージが込められています。

登場する人物は皆魅力あふれる血の通った人たちで、「北の国から」のように長期のドラマで梢恵の「あぐもぐ」での生活をずっと見ていたいなと思う作品でした。

物語の最後で片山と梢恵の関係が変わり、二人のやり取りは梢恵の成長がよくわかる場面となっています。

巻末にはたくさんの参考資料が列挙されており、この作品を執筆するにあたって著者が農業について勉強し、敬意を持って描いた作品であることが分かります。

どこにでもいる梢恵という若者の成長を通して、農業について重苦しくなりすぎず未来に希望を持った明るい小説で、農業について興味がある人や前向きな成長を遂げる話が好きな人にお勧めです。

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