法廷が明かす真実とは/事件 大岡昇平

タイトルが「事件」と至極シンプルであったことに興味を惹かれたのと、宮部みゆきさんがお勧めしていたので手に取ることにしました。

警察小説や刑事が主人公のドラマはたくさんありますが、裁判に焦点を当てた作品は少ないので、大変興味深く読むことが出来ました。

宮部みゆきさん著作の「レベル7」の紹介記事はこちら

【簡単なストーリー】

昭和三十六年、小さな田舎町で十九歳の少年が恋人の姉を刺殺する事件が発生した。

少年はすぐに逮捕され、犯行を自供。凶器も見つかり、事件はあっという間に解決。

検事は、ありふれた小さな事件であとは事務的に処理するだけだと侮っていた。

弁護士は、ただの殺人事件ではないと直感していた。

裁判官は、この事件が世間に今までにない影響を与えていることに気づいていた。

三者が法廷で相まみえたとき、裁判は思いもよらない展開へと発展していく。

少年はあの日、何故凶行に及んだのか。

法廷で明らかにされた真実とは。

著 大岡昇平/創元推理文庫

【どんな本?】

検事・弁護士・裁判官たちが中心となった裁判小説で、所々に裁判や法曹界についての解説が入ります。

戦後に出版された作品の為、作中の検事・弁護士・裁判官たちの取り巻く環境や裁判の様子などは現代とは変わっているところもあることでしょう。

しかし、描かれている裁判の様子は緻密で、過剰に演出されることもなく淡々と現実の裁判の様子を描き出しています。

出版されてから時間が経っているとはいえ、小説で描かれた法廷のやり取りや駆け引きなどは変わらないところも多いのではないでしょうか。

裁判がどのようにして行われているのかが、よくわかる内容となっています。

第三十一回日本推理作家協会賞を受賞していますので、ミステリー小説としても楽しめます。

法曹界を目指している人や、裁判について興味がある人は参考になるのではないでしょうか。

【検事の油断】

事件を担当した岡部検事は、少年の自供と凶器が揃っていたことで裁判を甘く見ていました。

渡された調書に不備があることには気づいていましたが、少年の犯行は明らかであり弁護側は情状酌量を求める程度で、至極簡単に裁判は終わると思っていたのです。

その思い込みから岡部検事は、第一回公判から小さなミスを重ねていきます。

相手が菊地弁護士でなければ、岡部検事のミスは大した痛手ではなかったのかもしれません。

岡部検事の最大のミスは、菊地弁護士がただの情状酌量を求めているのではなく、法廷の場で今まで隠されていた真実を明らかにしようとしていたことに、早い段階で気づかなかったことでした。

菊地弁護士の直感と目的

少年との面会で、菊地弁護士は検察側が主張するほどの凶悪な犯罪ではないと直感します。

この事件には何かがあると感じ、犯行当日に一体何があったのか法廷で一つ一つ明らかにしていきます。

菊地弁護士が検察側の主張を切り崩していき、依頼人である少年に有利な状況へと誘導していきます。

倫理観のない悪徳な弁護士であれば依頼人の利益最優先で、あわよくば無罪を勝ち取ろうと法廷で争いますが、菊地弁護士は少年が一人の女性を殺してしまったことは事実だと考え、それを否定するような弁護は行いません。

菊地弁護士の目的は、なぜ少年が刺すに至る状況まで追い込まれてしまったのかをその真実を明らかにした上で、適切な裁きを受けさせることでした。

法廷の真実を見極める者たち

裁判官たちは、検事と弁護士が提示する証拠や証人への尋問以外にも重要としていることがあります。

それは公判中の少年の様子です。

顔色や目の動き、体の向きなど逐一観察しどんな反応を示していたかも裁判官たちが参考材料にしています。

野口判事補は少年の様子に特別なものを感じます。

公判が遅滞なく行われるよう全体を指揮しながら、先入観を持たないようにして検事と弁護士の示す証拠やその論拠を聞き、真実を追及していきます。

裁判官たちが下す判決が、公的な真実となってしまうのですからその責任は重大です。

検事と弁護士は裁判官に対して、自らの主張が受け入れられるように様々な法廷テクニックを駆使していきます。

裁判官は検事と弁護士の法廷テクニックはある程度心得ていますので、それらに惑わされて真実を見失わないよう、裁判官としての職務を全うすることを心がけます。

法廷のプロ達と証言台の素人

検事・弁護士・裁判官を法廷のプロと表現するのであれば、証言台に立つ証人は素人と言えます。

突然、事件に何らかの形で関わり公判で証言をすることになった証人は、慣れない法廷で検事と弁護士から尋問を受けます。

検事が肯定したことを次は弁護士が否定にかかり、疑問を投げかける。またはその逆が起こり、証人達は翻弄されます。

検事と弁護士は、裁判官の前で証人から必要な言葉を引き出さなければなりません。

事前に打ち合わせをしていても、検事と弁護士それぞれの証人はその意図を理解しきれず、かえって窮地に陥るような発言や態度を取ってしまうことがあります。

菊地弁護士は、致命的になるような発言を引き出さないよう注意を払いながら、証人を優しく誘導したり時にはきつく問い詰めたりもします。

証人とのやり取りのシーンは、一つでも対応を間違えれば取り返しのつないことになりますので、非常に緊張する場面です。

どのように公判を進めればいいか素早く計算を働かせながら、証人と駆け引きしている様子はまさに法廷のプロです。

「真実」とは何か

裁判官たちは岡部検事と菊地弁護士が公判で提示した内容をよく吟味したうえで、判決を下します。

菊地弁護士は判決後の少年の様子から、公判で明らかにされなかったある可能性について考えます。

裁判は当事者以外の第三者によって事件を検証して議論をし、証拠を提示して妥当な真実を決め、公的な真実として記録を残し、それをもとに刑罰を決める場です。

つまり、根拠の乏しいものや議論されなかったことは、例えそれが真実でも公的な真実にはならないのです。

「半落ち」との共通点

「半落ち」(著:横山秀夫)と物語の構造に共通点があります。

「半落ち」では現職の警察官が妻を殺害したと自首しますが、自首するまでの二日間の行動については口を閉ざします。

この二日間について様々な人物が問い質しますが、何も話そうとしません。

「半落ち」では二日間について、あらゆる職種や立場の人たちが解明しようとします。

「事件」と「半落ち」は、共に事件が発生して逮捕されてから物語が動き出します。

犯行を認めて罰を受けたがっている所や、第三者が真実を明らかにしようとするところなどの共通点があります。

強い覚悟をもって何かを胸に秘めている人間には、惹きつける何かがあると「事件」と「半落ち」の登場人物たちが感じ取っており、それによって周囲の人間が起こした行動やその結果はそれぞれの作品で異なります。

通常のミステリーなら、犯人を捕まえる(判明する)までが物語として描かれますが、この二つの作品は全てが終わった後の、結果の変わらないところから物語が始まります。

少年の刺殺までの経緯や自首までの二日間がわかったところで、人が一人死んだという結果は変わりません。

物語として成立させるには難しい地点からのスタートであり、最後まで読んでもらうには著者の力量がなければ出来ません。

「事件」は裁判について詳しく紹介している側面が強いため、このような構造の物語を純粋な小説として楽しむなら「半落ち」を読むと良いと思います。

最後に

この小説は少年の視点で事件の真相を語りません。

ニュースや新聞で事件を知る部外者と同じで、少年の視点がないため読者もまた事件を外側から見る立場となります。

事件を外側から見て、その内側にある真実を明らかにする検事・弁護士・裁判官たちはそれぞれの立場から、読者と一緒に事件の真相を探っていきます。

裁判とはどのようにして行われるのか。

あの日何があったのか。

派手な展開はないのにいつの間にか夢中になり、気づけば読み終わってしまいました。

裁判小説の傑作です。

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