全てが順調だったはずの王朝はたったの半年で崩壊してしまう。王と麒麟は消息不明のまま6年の月日が流れ、国は荒れ妖魔が湧き出し戴国は滅亡へと突き進んでいた。新しい麒麟は生まれず、天の救いがない絶望的な状況で将軍は慶国へ助けを求めることにする。 追い詰められた将軍は戴国を救済する為ならば慶国を沈める覚悟を持っていた。 己の罪を自覚しながら窮状を訴えた将軍の声は届き、他国を巻き込んだ前代未聞の戴国救済作戦が始まる。 天に見放された戴国を人の力で救うことが出来るのか。/黄昏の岸 暁の天 十二国記 小野不由美

新潮社公式サイトでは読む順番が0番として「魔性の子」があり、新潮社の推奨通り読み進めてきた場合、8番目の「黄昏の岸 暁の天」で「魔性の子」で描かれていたことの全てがわかるようになっています。

「魔性の子」と「黄昏の岸 暁の天」は表裏一体の作品で、どちらか一方を先に読むと読まなかった方の一部ネタバレをしてしまいます。

十二国記シリーズを読もうと考えて、0番目の「魔性の子」から読むとファンタジーよりもホラー、怪奇小説の色が強いため「十二国記ってファンタジー小説だったよね?」と戸惑います。

読書に慣れていて、多くの伏線や謎が散りばめられた状態でしばらく謎が解明されなくてもシリーズを読み進めることが出来る人は「魔性の子」から読んでも良いと思いますが、ホラーが苦手だったり伏線や謎がすぐに回収されないと読みにくい方は、1番目の「月の影 影の海」から読んでいた方が良いです。

「魔性の子」を飛ばして1番目の「月の影 影の海」から4番目の「風の万里 黎明の空」まで読み進んでから「魔性の子」を読むと、物語の内の不気味で不可解な出来事の理由を察することが出来ますので、ホラー要素が緩和され読みやすくなります。

「黄昏の岸 暁の天」を読んでいて最後までどうなるかわからない物語展開を楽しみたい人は、「魔性の子」は「黄昏の岸 暁の天」の後に読んだ方が良いです。

「魔性の子」は「白銀の墟 玄の月」が出版されるまで読まなくても問題ないような、番外編のような立ち位置でしたが、「白銀の墟 玄の月」が出版されたことでとても重要な一冊となりました。

「黄昏の岸 暁の天」読了後すぐに読まなくても、「白銀の墟 玄の月」を読む前には絶対に読んでおいた方が良いです。

むしろ、読まないと一部描写にわからない部分が出てきてしまいます。

この記事は「黄昏の岸 暁の天」の紹介となりますが、「魔性の子」には極力触れないようにします。

【簡単なストーリー】

慶国の国歴で3年、慶国の首都尭天の禁門に満身創痍の様子の騎獣に乗った人間が飛び込んで来た。

突然の事態に混乱する禁門の兵士たちは、騎獣とその乗り手の正体を知り驚く。

乗り手は戴国の将軍李斎と名乗り、戴国の救済を求めて命懸けで戴国を脱出し景王の陽子に助けを求めていた。

王と麒麟が不在で国土が荒れ、妖魔が湧き出して近づくことが困難な状態だった戴国からの突然の使者に驚き、謎に包まれていた戴国の真実が李斎の口から語られる。

驍宗と泰麒の行方はわからず、天の救済が行われないまま流れた6年もの月日は、戴国を地獄絵図へと変えていた。

戴国民が天に祈り続けても救済を行われず、驍宗と泰麒の行方が分からない絶望的な状況で李斎は罪を犯してでも戴国を救うことを考える。

天の理に疎いであろう、胎果の王ならきっと……。

戴国救済が慶国を沈めることになるかもしれないとわかっていながら、李斎は大罪へと足を踏み出し、景王陽子へ戴国の救済を嘆願する。

陽子はどうにかして戴国救済に動こうとするが、慶国には他国を援助できるほどの余裕などなかった。

李斎の件を知り、様子を探りに来た延王尚隆と延麒は戴国救済には「天の理」という最大の壁があることを陽子に伝える。

戴国を見捨てられない陽子は泰麒失踪時の様子から、泰麒が蓬莱か崑崙に逃れた可能性に賭けることにした。

雁、恭、範、才、漣、奏、慶国の7々国が協力して戴国救済の為に動くという、前代未聞の泰麒救出作戦が開始される。

天さえ見放した戴国を非力な人の力で救うことが出来るのか。

著:小野不由美/新潮文庫

【命懸けの嘆願】

時系列は「風の万里 黎明の空」の後になり、浩瀚などが中心となって朝廷の整理を行って少しずつ陽子の王朝を整えようとしている最中に、戴国の将軍李斎が飛燕と共に禁門に駆け込んできます。

飛燕も李斎もひどく傷つき、瀕死の状態で陽子への謁見を求めて禁門を突破しようとします。

突然の侵入者に混乱する兵士や官吏たちは李斎を追い払おうとしますが、そこへ大僕の虎嘯がやって来て李斎を助け出します。

慶国へ辿り着くことが出来た李斎はそれも運命だとして、戴国救済の為に慶国に「天の理」を犯させることを覚悟します。

戴国を脱出する際に、友人の花影(かえい)からは李斎が慶国に行おうとしている大罪を非難されますが、他に方法がないと思いつめた李斎は花影が止めるのを無視して慶国を目指します。

辿り着けるかどうかわからない命懸けの戴国脱出でしたが、李斎は慶国へと辿り着き陽子に戴国の窮状を訴えることに成功します。

瀕死の怪我を負ってまで慶国を頼って戴国救済を願う李斎を、陽子は見捨てることが出来ませんでした。

「風の海 迷宮の岸」で王として間違いなく傑物である驍宗を選び、泰麒と戴国の未来は明るく開かれたものの筈でした。

しかし、「黄昏の岸 暁の天」まで読み進めていると戴国の状況が非常に悪いことが度々描写されており、「風の海 迷宮の岸」の後の驍宗と泰麒に何があったのか、気になって仕方ないところでようやく「黄昏の岸 暁の天」で戴国に何があったのか、李斎の回想という形で語られます。

「風の万里 黎明の空」の後の慶国の様子も描写され、祥瓊や鈴、遠甫などが陽子の王宮で活躍しています。

陽子の王朝が3年程度であることと、李斎の回想する驍宗が即位してから半年の王朝の様子が対比して描かれます。

李斎は陽子の王朝が3年経っても様々な点で不足があることを、傷ついた体を療養しながら察しますが、そもそもたった半年で10年はかかるであろう、王朝の整理を進めていた驍宗の方が異常だったと気づきます。

慶国の禁門の兵士の様子や、陽子の側に控える人間の少なさなど陽子の王朝はまだまだこれからといった状態で、「東の海神 西の滄海」の頃の雁の王朝の雰囲気と似ています。

今の慶国や初期の雁国のように本来なら新しい王朝がわずか半年で整うはずがなく、驍宗の王として手腕が凄まじいことが分かります。

その手腕からして驍宗が戴国にとって素晴らしい王であることは間違いないと考える李斎でしたが、それと同時にその先見の明と行動力に付いていけないと感じることもあったことを思い返します。

【消えた王と麒麟】

李斎の体が回復するのを待つ間、陽子は状況を把握するため景麒と浩瀚に李斎の件を相談します。

そこで初めて陽子は戴国の異常な状態を知ることになります。

即位してわずか半年で泰王が亡くなったと鳳が鳴くのではなく直接連絡があったことや、6年経った今も蓬山に泰果が実らないなど、驍宗と泰麒が死んだとは思えず、かといって戴国の荒れ方は尋常ではない為、一体何が起きているのかが分かりません。

通常であれば天帝により異常な状態は是正されるはずですが、その仕組みが戴国には働いていないようでした。

驍宗が国を荒らした訳ではなく泰麒も生きている為、天帝は新しい王と麒麟を生む道理がありません。

そして、玉座の簒奪があった場合通常は民衆による玉座奪還が行われ正当な王が玉座に戻るはずですが、戴国ではその動きがなく6年も経過しています。

どうやら天帝の介入がされない最悪な状態を戴国は維持しており、民衆は玉座奪還に向けて動くことが出来ない、まさに救いの無い状況に陥っていることが明らかになります。

陽子はある程度回復した李斎から驍宗と泰麒の失踪の状況を聞くことにします。

乱の平定に赴いた驍宗は二度と戻らず、混乱している最中に王宮では泰麒が鳴蝕を起こし周囲を瓦礫の山にして姿を消してしまいます。

李斎の話を聞いた延麒と景麒は、驍宗よりも泰麒が鳴蝕を起こしたことに注目します。

泰麒が麒麟の本能を全て理解していたとは思えず、鳴蝕は危機的状況に陥った泰麒が無意識に起こした回避行動で、意識的に行ったとは考えられないと話します。

泰麒は蓬莱か崑崙に蝕で飛んでしまい、戻りたくても戻ることが出来ない状況なのではないかという推測は、戴国救済を絶望的なものにします。

李斎の回想として語られる戴国が混乱している様子は、謀反を起こされる側の視点となっていて、何が起きているのかわからず全てが相手の思惑通りに動き、状況を把握した時には何もかもが手遅れになっている様子を描いています。

情報が錯綜し、誰が敵で誰が裏切り者かわからない中、李斎の辛い逃亡生活が始まります。

李斎たち驍宗側を最も困惑させたのは、驍宗と泰麒に反旗を翻したのが驍宗と双璧と呼ばれ仲間からの信頼も厚かった阿選(あせん)だったことです。

驍宗も阿選を信頼していたようだし、何より泰麒も阿選に懐いていました。

驍宗の王としての手腕は間違いないもので、李斎は阿選がなぜ謀反を起こしたのかがわかりません。

更に不可解なのは驍宗から玉座を簒奪した阿選が、戴国を治めるのではなく滅ぼそうとするかのような行いをしていることでした。

そのせいで戴国の国土と戴国民は次々と死んでいきます。

李斎が語った戴国の現状は「東の海神 西の滄海」で驪媚が警告していた、王と麒麟が存在する状態で王ではないものが国土を蹂躙することの恐ろしさが体現されたものです。

また、天帝について斡由が「天はなぜ悪逆非道の王をすぐに殺さず、麒麟を病ませて殺すような手間をかけるのか」と国民が苦しんでいるのに、すぐに救済に動かない天帝という存在に疑問を投げ掛けていました。

これほどに多くの戴国民が苦しみ、6年もの間放置され続けている現状を李斎は斡由のように「なぜ天帝は救済に動いてくれないのか」その存在に不信感を持つようになります。

【泰麒救出作戦】

あまりにも絶望的な状況で、李斎は戴国が救われるために陽子に覿面の罪(てきめんのつみ)を犯させる覚悟でいましたが、陽子の誠実な人柄とその優しさに接することで慶国の民の為に必要な王を奪ってはならないと思い止まります。

李斎自身が驍宗という、戴国民に必要な王を失った苦しみを知っているからこそ大罪に踏み込むことを思い止まることが出来ました。

李斎が大罪に踏み込まなかった事は「白銀の墟 玄の月」のある場面での李斎の台詞に繋がり、李斎にしか言えない言葉を戴国民を代表として投げ掛けることになります。

戴国に軍を率いて入ることが出来ない以上、戴国救済の鍵は泰麒にあるとして雁、恭、範、才、漣、奏、慶国の7々国の麒麟による、蓬莱と崑崙で泰麒を捜索するという前代未聞の泰麒救出作戦が行われることになります。

辛抱強く捜索を続けることで泰麒を見つけることが出来ますが、もはや麒麟ですらないのではないかと思えるほどに泰麒は酷い状態になっており、どうやってこちらに戻せばいいのか、戻ってこられたとして泰麒は麒麟なのか、という想定していなかった深刻な問題に頭を悩ませることになります。

ここで初めて登場するのが範の王と麒麟ですが、在位300年の大王朝ということもあって個性的で癖が強い主従です。

延主従がやり込められているのも珍しく、氾王と氾麟に戸惑う陽子や二人に気に入られて振り回される祥瓊など、範主従は自国ではどんな様子なのか、支える臣下はどんな人物なのか短編でもよいので範国が中心の話が読みたくなります。

【人の内実はわからない】

戴国中心の物語の時、主な視点は泰麒と李斎で驍宗視点がほとんどありません。

驍宗への描写は常に泰麒から見た驍宗、李斎から見た驍宗となっており肝心の驍宗の内面がわからないようになっています。

李斎の回想で、驍宗が王朝を整えようと行っている政策についてその意図が分からず花影を含めた多くの麾下たちが悩んでいたり、不安に思っている様子などが描かれています。

驍宗が行うことは間違いない、意味のあることに違いないと解釈をしていますが、それら全ては外野から見た驍宗であり、皆が思う驍宗像をもとに納得しているにすぎません。

信頼が不安に変われば、花影にようにあらゆることが怪しく思え驍宗に対する不信感へと変わってしまいます。

恐れおののく花影を李斎が宥める場面がありますが、驍宗に絶対的な信頼を置き盲目的に追従していけるような人でなければ、花影のようについていけなくなる者が出てきます。

驍宗はあらゆる点で常人を凌駕しており、驍宗の見ている世界と同じものを見ることは難しく、李斎でさえついていけいないと感じることがある程です。

陽子は話を聞けば聞くほど傑物の王だと驍宗を評価し、そのことを桓魋に話すと「本当に傑物なら国を荒らすはずがない」と言葉を返します。

そして、評価は他人が下すもので自身の内実とは関係がないと言い、人の内実はわからないものだと陽子を諭します。

陽子と桓魋の会話の場面は「白銀の墟 玄の月」の重要な伏線となっていて、まさに「黄昏の岸 暁の天」において驍宗と謀反を起こした阿選の内実を誰も分からなかったように、他人の下す評価に惑わされ、振り回されている様子が残酷なほどに丁寧に描かれていました。

人の内実などわからないという桓魋の言葉は、「白銀の墟 玄の月」に描かれる主題の一つになっています。

【最後に】

天帝のこれまで起こしてきた奇跡のような力は実は機械的に発動するようなもので、戴国の状況はその隙をついたものだとわかると、戴国を救済しようとしない天帝に対して、陽子や李斎がその存在を懐疑的に思うようになります。

天帝の存在が怪しいことは「東の海神 西の滄海」でも示唆されており、泰麒救出作戦においても、陽子たちも天帝の力が発動しないようにその隙をついて行われています。

万能の神のように思える天帝が万能ではない事や、戴国救済に直接介入をしてくれないことなど、天帝という存在が怪しいものとなり、李斎はその怒りをぶつけることになります。

しかし、天帝は何もしないという訳ではなく天帝の救済の仕方については短編集「丕緒の鳥」の「青条の蘭」に描かれており、「白銀の墟 玄の月」の物語の展開に重要な役割を担っています。

李斎の願う直接的な救済ではありませんが、「青条の蘭」で描かれている天帝の救済の仕方を考えると、天帝は人に対してあまり干渉が出来ない、または干渉しすぎないようにしている節があり、人間を試しているかのようです。

結果だけを求めて無償で何かを手に入れることに慣れると人は碌なことをしない、ということは「図南の翼」で描かれており、天は人が天に頼りきりになり成長しなくなることを避けているようにも思えます。

天帝という神のような存在がありながら、それに頼ることが出来ず、絶望的な状況で人はどうするのか、「白銀の墟 玄の月」でその壮絶な物語が描かれます。

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