「アナザーフェイス」「刑事・鳴沢了」シリーズなど数多くの人気警察小説を描いている著者が、警察小説とは違う小説を書いている本書を見つけて読むことにしました。
【簡単なストーリー】
1983年、風呂無しボロアパートに住む大学生の波田は厳しい肉体労働のアルバイトに明け暮れながら、金欠で貧乏な暮らしに嫌気がさしていた。
偶々受け取ったバイト募集のチラシにあったアンケート調査員の時給の高さに惹かれた波田は、怪しみながらもバイトの面接に行きそのまま働き始める。
アンケート調査は肉体的に厳しいものがあったものの、波田は人から話を聞き出したりうまくあしらうといった天性の才能があることがわかり、その才能を活かして結果を出していく。
バイト先の北川社会情報研究所の所長の北川から気に入られ、波田は次第に北川社会情報研究所で働くことに積極的になっていき、手にした大金は波田の価値観を変えていく。
すごい人たちと仕事をしているという自己満足、低時給で働く友人を横目に金の心配をしないでいられる優越感、大学の友人たちとは違う一つ上の高みから世界を見ているのだという自己陶酔は、波田の危機察知能力を鈍らせ周囲の忠告に耳を傾かせない。
やがて、波田は北川からこれまでとは違う特別な「仕事」を与えられ、事態が一変する。
罠に嵌められたと気づいた波田は、北川たちへの復讐を決意した。
善と悪の狭間で青年は揺れ動く。
著者:堂場瞬一/集英社文庫
どんな本?
数々の人気警察小説を生み出してきた著者による、警察小説ではない新境地となる作品です。
毎日風呂にも入れない貧乏学生の波田が、高時給に惹かれて怪しいアンケート調査員のバイトに手を出してしまうところから物語が始まります。
善良などこにでもいる大学生の波田が、アルバイト先の北川たちに影響されて深みへと嵌って行ってしまいます。
波田は一般的な倫理観と遵法精神を持った平凡な大学生でしたが、アンケート調査員のアルバイトを始める前から、お金について劣等感や妬み持っており、生活を変えたいという野心が強いことが序盤のシーンで示唆されています。
奨学金を貰いながら学校へ通ったことがある人や、学費や生活費の為にアルバイトに時間を割かなければならなかった人、お金を理由に留学を諦めたことがある人などは、波田の鬱屈した思いや焦燥感には共感が出来ると思います。
お金がないという事が原因でどん詰まりのような毎日を送っていた波田にとって、北川たちとの出会いはどれほどの衝撃で、そして未来が輝いて見えたことでしょうか。
駆け上っていると思っていた階段が突如消え失せ、真っ逆さま落ちていった波田は自業自得ではあるものの、波田の抱えていた鬱屈した思いと野心は誰もが一度は胸に秘めたことがある感情です。
北川たちのような手練れにその感情を揺さぶられてしまえば、波田のように自尊心を肥大させ暴走してしまうのも仕方ありません。
社会に出る前の未熟な若者が毒され翻弄されていく様子は、現実で起きている犯罪行為に手を貸してしまう若者そのものです。
安易に犯罪に手を染めたように思える若者たちの中には、波田のように利用され罠に嵌められた人もいたのかもしれません。
善良だった若者が毒され、違う人間へと生まれ変わっていく様を見事に描いた作品です。
【高額時給のアルバイト】
企業がビジネスを展開していく上で情報を重要視することは今では当たり前のことですが、物語はパソコンが普及する前の1983年の為、情報が最大の武器になることやパソコンがこれからの生活を変えていくことに気づいている人間は多くいませんでした。
波田が訪れた北川社会情報研究所は、企業から依頼を受けて街頭でアンケート調査を行い、その調査結果を企業に渡して利益を得ていました。
所長の北川がメディアに度々出ている有名人であったことから、怪しみながらも時給の高さに惹かれて古いビルの中のにある北川社会情報研究所を訪れます。
出迎えた男にあっという間に仕事を任され、波田はとりあえずアンケート調査を開始します。
ここで波田は自分も知らなかった才能に気づきます。
見知らぬ人に話しかけて、アンケートを書いてもらうのは想像以上の肉体労働で大変ではあったものの、波田はアンケート調査の仕事を終えます。
頭もよく前向きに取り組む波田に、研究所の鶴巻は気前よく食事を奢って波田に次の仕事を依頼します。
羽振りの良い鶴巻の様子と高価な食事は、波田から怪しい会社という疑念を払拭させました。
所長の北川と対面した際に北川から仕事を続けてくれるよう熱心に誘われます。
北川の語るデータを扱う新しいビジネスとその価値観に、波田は驚き将来の自分について考えるようになります。
まだ社会を知らない大学生の波田にとって、オフィスで働くことのイメージは漠然としています。
それこそドラマや映画で見るスーツを着たサラリーマンしか知らない波田が、初めて見た働く男たちが北川社会情報研究所でした。
会社の経費で高価な食事を奢り、年収も平均より上の鶴巻の様子や手渡しで渡される給料の多さに、波田は北川社会情報研究所に心が傾いていきます。
この一連の流れは使える人間の囲い込みをしていて怪しいことこの上ないのですが、鶴巻や北川たちと共にお金を稼ぎ新しいビジネスで世の中を変えていくという人生の選択肢に、波田は舞い上がってしまいます。
金欠に喘ぐ波田にお金があることを示してみせ、高価な食事で胃袋を満足させて未来の展望を語り、君は優秀だと褒め称える。
社会経験が不足している波田は、冷静になれば怪しいとわかる彼らの言動に気づくこともなく、手渡されるアルバイトの給料に満足してしまうのでした。
【離れていく友人たち】
北川と話してすぐ波田の口座に100万円が振り込まれます。
大学の授業料として振り込まれており、北川は波田への先行投資のつもりで振り込んだと鶴巻が説明します。
まだ誘われただけで今後も働くことを約束したわけでもないのに振り込まれた大金に、さすがに波田も怪しいものを感じます。
しかし、他にはない高額のアルバイトに自分の能力を評価してくれる有名人の北川、これから大きなビジネスになると説明された情報を扱う先見性のある仕事、それらを考えた時、波田は周囲に相談をすることを辞めます。
貧乏をしなくてもよいということが、波田にとって抗えない最大の魅力でした。
アンケート調査の仕事は順調に進み、北川と接する機会が多くなるにつれて北川への憧れと全てを学び取って成長してやるという上昇志向が芽生えてきます。
充分すぎる給料は、波田に贅沢することに慣れさせ波田自身の立ち振る舞いが変わっていきます。
風呂無しボロアパートから一転して、綺麗なエアコン付きの部屋へ引っ越します。
引っ越し祝いに来た友人は生活の変わった波田に仕事への探りを入れます。
北川社会情報研究所で働くライバルを増やしたくない波田は、仕事について適当にごまかして本当のことは話しません。
家庭の事情で夢を諦めて田舎に帰る友人に、波田はその程度で諦めるのかと言い放ち自分の欲望の為なら家族を捨てるべきという強い野心を見せます。
金欠が解消された波田にとって、少し前の自分のようなお金に悩まされている状況を愚かなことと考え、見下すようになります。
北川たちと自分は世の中の人とは違う高みにいるのだと浮かれ、大学もサボって仕事に集中していきます。
コンピューターに詳しい友人から、仕事内容の怪しさを指摘されますが波田は聞く耳を持ちません。
お金によってすっかり価値観が変わり、持ち前の上昇志向と犠牲を厭わない野心が波田を変えてしまいました。
踏みとどまる機会は何度もありましたが、波田は抜け出せない泥沼へと足を踏み出していきます。
【裏切りと転落】
波田は北川から今までとは明らかに異質の内容の仕事を任されます。
高齢者を騙している会社を監視するというもので、違和感を覚えながらも北川の「社会正義の為」という熱弁にほだされて仕事を引き受けます。
高齢者を騙している会社に波田は正義感を刺激され、北川の語る「社会正義の為」仕事に取り組みますが時折不穏な気配を感じます。
そして、アンケート調査の仕事で以前アルバイトとして雇った女性の陽子から、北川社会情報研究所について危ないのではないかと忠告を受けます。
陽子に好意のあった波田は、会社を否定される言葉に失望しここでも忠告を聞き入れません。
陽子からの言葉が波田にとって踏みとどまる最後の機会でしたが、それを逃し波田は転落していきます。
監視を終えて帰ろうとした波田は襲われ監禁され、尋問を受けます。
命の危機を感じたところで警察が踏み込んできて助かりますが、波田の地獄はここから始まりました。
警察で事情聴取を受けた波田ですが、どこか様子がおかしいことに気づきます。
訳の分からないことだらけで、混乱する波田は警察から解放されると北川へ会いに行きます。
ひどい目に遭ったというのに北川の態度はこれまで見たことがないような素っ気なさで、波田は怒りを覚えます。
家に帰された波田は、腑に落ちないことが多いながらもとりあえず大学に向かいます。
そこで学生たちの前で警察に連行され、再び事情聴取を受けます。
警察から波田は北川社会情報研究所のデータが悪用されていたことを知り、取り調べを担当した刑事からは北川社会情報研究所の仕事に裏があることを匂わされます。
波田が逮捕されたと噂が広まっていて、大学に戻れるかどうかわからないぞと見下していた友人から言われ、波田への協力を拒否します。
社会的信用と友人、戻れる居場所を失った波田は何が起きているのか調べ始め自分が捨て駒にされたことを知り、北川へ復讐することを決意します。
【最後に】
お金と北川が見せてくれた夢に酔っていた波田が、転落していく様は悲惨で哀れですらあります。
波田は何も情報を与えられずいいように利用されていたことが分かり、大きな人間になったと思い込んでいた波田は北川からも警察からも碌に相手にされず、事情聴取前と後で取り巻く世界がすっかり変わってしまいます。
状況の分からないまま受ける警察の事情聴取には恐怖を感じ、自分がちっぽけで愚かな人間に思えてきます。
一般人が突然警察署で刑事から事情聴取を受ければ、波田のように混乱して情報を与えず一方的な刑事の態度には苛立ちを覚えることでしょう。
本作は警察が主人公ではない為、警察署の場面は嫌な感じに描かれ蚊帳の外だったと気付いた波田の苛立ちを加速させます。
素朴な女の子だと思っていた陽子が意外な形で物語に関わり、波田の北川への復讐が始まります。
波田には特別な人脈も頼れる大人もいない中、波田は北川へ一矢報いる為戦います。
どこにでもいる大学生の波田が、北川へと迫っていく執念は波田に話を聞き出せるとは別の才能を開花させます。
本書のラストシーンを考えると、この物語は稀代の悪が生まれる前日譚とも捉えることが出来て、続編があればぜひ読みたいと思います。
バブル前という時代設定を考えると、この物語のその後で波田はバブル経済の中を生き抜き大物になったのではないかと想像できます。
正当な続編がなくても、著者の他の作品で悪役として波田が登場するのではないかと期待してしまうような、そんな物語でした。
正義の味方より悪の視点が好きな人にお勧めの作品です。