辻村深月さんの作品を読みたくて、何を読もうかと迷っていたところ、こちらの本を勧められて読むことにしました。
ぼくとふみちゃんの置かれた状況が痛ましく、読んでいて心苦しくなる場面が何度もありました。
【簡単なストーリー】
学校で飼っていたうさぎが凄惨な方法で殺されてしまった。
第一発見者のふみちゃんは、血だらけのうさぎを抱えて、そのままショックで言葉を発さなくなった。
賢くて心優しかったふみちゃんは、誰の呼びかけにも反応せず、焦点の合わない目でぼんやりするだけ。
ふみちゃんの心を壊し、うさぎを殺したあいつの罪は器物損壊。
ぼくには特別な力があった。
ぼくだけがあいつに復讐することが出来る。
だからぼくは、力を使うことにした。
著 辻村深月/講談社文庫
【どんな本?】
もし、一度だけ誰にも知られることなく憎い相手に復讐をすることが出来るとしたら?
現実ではあり得ない力を持ったぼくが、これまで考えたこともなかった罪と罰について秋山先生から講義を受け、自分なりの答えを導き出します。
復讐をしたことへの罪を問われることがないという、理想的な力で相手を罰する。
法的解釈で罪に対する罰を決めるのではなく、私的に罰を与えるということはどういうことなのか。
罪に対する罰はどのようにして決めるのか。
現実の法律による罰と、当事者として考える受けるべき罰との乖離があるとき、ぼくの持つ力があったらどんな罰を与えますか?
ぼくの持つ不思議な力を通して、罪と罰の在り方についてよく考えさせる内容となっています。
【ぼくの不思議な力】
ぼくの力は万能ではなく、いくつかの条件があります。
秋山先生はぼくと同じ力を持っていて、力の使い方と罰を与えようとするぼくに対して、罪と罰について講義します。
小学四年生のぼくに秋山先生は大人と同じように扱い、ぼくがしっかりと考えた上で答えを出すよう導きます。
この物語の大半は秋山先生とぼくとの講義に割かれています。
物語の展開上、この力の条件は非常に重要ではありますが、力の設定そのものは重要ではありません。
力の正体や、なぜぼくの血筋に現れるのかが明かされないのは、この物語で描きたいことから逸脱してしまうからです。
緻密な力の設定が物語に大きく影響する「HUNTER×HUNTER」(作:富樫義博/集英社)や、ぼくと同じく、誰にも知られずに罰を与えることが出来る力を持った主人公の「DEATH NOTE」(原作:大場つぐみ 作画:小畑健/集英社)とは根本的に物語における力の扱い方が違うため、力について提示された条件以外に興味を持っていると、読了後に解明されなかった力について疑問が残ってしまいます。
重要なのは明かされた力の条件をどのように利用して、ぼくが罰を決めるのかです。
秋山先生とぼくとのやりとりで語られる罪と罰の在り方は、個人が罰を決めることの難しさを示しています。
【ふみちゃんとぼく】
ふみちゃんはクラスで一番賢く、優しい女の子でした。
ふみちゃんはただ賢いだけではなく、自分の中で正しいことと、正しくないことに対する物差しをしっかりと持っている子でした。
だから、ずるをして宿題を写そうとする子には協力はしないけど、勉強が分からない子にはしっかりと教えてくれる公正さを持っていました。
小学四年生にしては先を行く価値観が、時にはクラスで浮いてしまうこともあるような子で、ぼくはそんなふみちゃんを尊敬していました。
同じクラスの男子は、可愛いか可愛くないかで女の子を見ている中で、ぼくはふみちゃんの考え方や心の在り方を含めて好きでした。
事件後抜け殻のようになってしまい、何も反応を示さないふみちゃんにぼくはうさぎを殺した大学生に対して怒りを強めます。
そして、大学生を罰してくれるはずの大人たちが、ふみちゃんの心を壊したことに対してあまりに不釣り合いな罰しか与えない不条理と、ふみちゃんがいなくなった学校で変わらない毎日を送るクラスメイトに苛立ちを覚えます。
ぼくもまた無力のまま日々を過ごしていく筈でしたが、ぼくの持つ力が復讐という選択肢を与えます。
事件後のふみちゃんの様子は痛ましく、またふみちゃんに必死に話しかけるぼくは、小学四年生が受け止めるにはあまりに重く辛い現実です。
ふみちゃんを便利な子だと利用することしか考えないクラスメイトでは、ふみちゃんを救えません。
ふみちゃんの為に行動できるのはぼくだけ、という状況がぼくを追い詰めていきます。
【理由のない悪意と正しさを拠り所にした罰】
うさぎを殺した大学生は、うさぎとふみちゃんの写真を撮ってインターネットに晒し、好き勝手に嘲笑します。
逮捕された後も反省した様子は見せません。
秋山先生はこうした人々を「現実を消費する」と表現し、同意のない他者に対して危害を加えたり、インターネットに晒すなどして一方的に悪ふざけを仕掛け、その心と体を傷つけます。
罪という概念が希薄な相手に対して、力をどう使えば良いのか。
今まで出会ったことのない悪意にぼくは戸惑い、苦悩します。
事件がニュースとなると今度は大学生に対してインターネットで個人攻撃が始まります。
住所や名前、通っている大学があっという間に知られ、拡散されてしまいます。
ぼくの苦悩から遠く離れたところで、大学生の身元を明らかにすることが正義だと信じて、個人情報をインターネットにばら撒くという罰を与える人達。
ぼくのような力がなくても、こうした私的に罰を与える人達がいます。
正しいからと一方的に罰を与える行為について、その危険性を秋山先生はぼくに説きます。
【ふみちゃんとぼくのメジャースプーン】
ぼくは大学生に与える罰を決めて、ついに力を使います。
決死の覚悟で力を使うぼくは、ふみちゃんから預かったメジャースプーンを握りしめて、どうしようもない悪意を持つ大学生と対峙します。
タイトルにもあるメジャースプーンは、秋山先生とぼくが何度も議論した罪と罰の象徴です。
メジャースプーンを使って正しい計量を行わなければ、ケーキは膨らまずおいしく作れません。
多すぎても少なすぎても、ケーキは完成しません。
秋山先生もふみちゃんも物事の正しさについて、心の中に独自のメジャースプーンを持っていました。
そしてぼくは、ぼくの中のメジャースプーンで罪に対する罰を量り、覚悟を決めて実行します。
【最後に】
小学四年生という設定は、うさぎの世話を任せられるぐらいの責任を持たせられるけれど、まだ無力な子どもというところが絶妙な年齢設定だと思います。
例に挙げた「DEATH NOTE」の主人公の夜神月は、力を持った時点で高校生なので知識や価値観はほぼ完成されており、力を持った瞬間から独自に動いていきます。
夜神月が小学四年生では、出来ることがかなり限られていた上に価値観や知識は未熟で、うまくいかなかったでしょう。
小学四年生は子どもとは言え、何もわからない程幼くはありません。
しかし、不条理に感じたことに対して対抗できる程の力はありません。
ぼくの力は、不条理に対抗する魔法の力であり、罪と罰についてあらゆる観点から考えるきっかけを与えます。
読者もまたぼくと一緒に秋山先生の講義を聞き、罪と罰について考えさせられます。
ふみちゃんの巻き込まれた事件とその後の騒動は、現実の世界で起こっていることそのものです。
大切な人が傷つけられ、その罪に対する罰があまりに軽いと思ったとき、ぼくと同じ力を持っていたとしたら、どんな罰を与えますか?
小学四年生の心理を描き切り、罪と罰について問いかける傑作小説です。